三崎池は市内で4番目に大きな人工の池(ため池)です。
ため池とは、降水量が少なく、流域の大きな河川に恵まれない地域などで、農業用水を確保するために雨水などを貯え取水ができるよう、人工的に造成された池のことです。ため池は全国に約16万カ所存在し、特に西日本に多く分布しています。ため池の歴史はとても古く、米づくりがおこなわれるようになった弥生時代には、すでにためため池のようなものが造られていたという記録があります。古墳時代になって、古墳を造る技術がため池にも活かされるようになり、大きなため池が造られるようになりました。
江戸時代になって新田開発がさかんになり、全国でもため池がたくさん造られました。人口が増え、主食の米がたくさんいるようになったことと年貢の増収を図るため米がより多く必要になったからです。こうして、ため池は米づくりのために大事な水を貯え、人々の命を支えてきました。水は貴重で、雨が降らなくて水が足りないと雨ごいをしたり、水争いもおきました。三崎池は、高鴨池と呼ばれていて戦国時代から江戸時代初期に造られたようです。豪雨の時の氾濫に備えて上池と下池と二段がまえになっていました。天保12年の絵図を見ると周辺には低い山が描かれています。絵図には、現在の間米からゆたか台や高鴨あたりを間米村山、豊明中学周辺を横井山といったと記載されています。絵図は大雑把ですが眺めていると当時の自然や人の暮らしなど想像が膨らみます。
ため池を維持するためにかいぼりもしました。冬場に水を抜き、たまったヘドロや土砂を取り除き、底干しをします。ヘドロは畑の肥料に、魚はみんなで分けて食べました。貴重なタンパク源だったでしょう。かいぼりは集落総出の楽しいお祭りだったようです。余談ですが、環境研究所豊明も2004年にかいぼりを実施しました。耳目を集めた一大イベントでした。
機械のない時代に泥まみれになりながら人力で土を掘る農民に思いを馳せながら、ため池の歴史は命がけの農業の歴史でもあると実感しました。今後、ため池は地域の文化遺産として後世に引き継いでいくべきだと思います。豊明市史資料編の地図には戦時中のものがありませんので、昭和3年からいきなり52年の地図(右ページ参照)になります。52年の地図では区画整理され田んぼは住宅街に代わり、高鴨池は三崎池となっています。下池は埋め立てられて、6年後には三崎小学校が建設されています。
ため池は昭和36年(1961年)に愛知用水が完成して、大半の田んぼの水はため池に頼らなくてよくなり農業用としての役割が終わってしまいました。ですが、ため池は農業用水の確保だけではなく多面的な機能を有しています。例えば、大雨のとき洪水を防ぐ調整池の役割や災害時に防火用水や生活用水になります。生きものの生息・生育の場所としても貴重です。他にも周辺の気温を下げたり、騒音を吸収し軽減したりします。そして、水辺の風景は私たちに安らぎをもたらしてくれます。しかし、ため池には深刻な課題もあります。近年、集中豪雨が頻発し、これに伴い土砂災害も増加しています。今後30年間に最大震度7クラスの地震が約70%の確率で発生すると言われている南海トラフ地震をはじめ、日本海溝・千島海溝周辺の海溝型地震などの発生が懸念されています。東日本大震災では、ため池が決壊し人命が奪われ、住宅や農地などに被害が発生しました。大規模地震に備えた耐震調査と必要な整備の実施が急務となっています。
2020年11月、ため池の防災対策をさらに強化する必要があるとして、武田総務大臣は堤防の補強など自治体が行う工事に対する国の財政支援の割合を今のおよそ6割から拡充すると述べました。三崎池が上記にあたるかどうかわかりませんが、今、三崎小学校側の堤防は補修工事中です。取水口の底部分で漏水しているのではないか(まだ確認できていない)ということです。大地震が想定されている地域なので、堤防が決壊すれば甚大な被害が発生します。不安な市民も多いはず。念入りな調査と補修の強化を望みます。
「蟻の穴から堤も崩れる」と言いますから。(中村)
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